おはなさんのモヤモヤ

ニュース、テレビ・ラジオ番組、日々の出来事…などなど、様々な刺激を受けて生じたモヤモヤや葛藤を書きます。

2011年3月11日、あの日のモヤモヤ

おはこんばんにちは。

おはなさんです。

 

東日本大震災から10年が経ちました。

メディアでは、「節目の10年」と言うキャスターがいれば、

「節目とか区切りとか無い。10年経っただけ」と言う人がいる。

私は「節目の10年」と言うコメントには一瞬モヤモヤしましたが、

あの日の経験は人それぞれだから、認識が違っても無理はないかな、と。

 

 

 

 

 

当時、私は沖縄に住む高校3年生の受験生でした。

都内の国公立大学の進学を目指していました。

2月の前期試験に落ちたため、3月の後期試験に挑むことになりました。

 

 

試験日は3月12日でした。

 

(以下、一部あいまいな記憶が含まれています。)

12時半ごろに那覇空港を出発しました。

羽田空港への到着は15時予定。

14時46分、その時は上空にいました。

着陸時刻まで数分に迫る中、機内アナウンスが流れました。

地震が発生し滑走路が安全確認を行うため、着陸できません。

そのためしばらく旋回します」と。

 

10~20分くらいは旋回していました。

その後羽田空港に着陸するも、滑走路に停まったまま駐機場に行かず、

しばらく待機していました。

 

するとアナウンスが流れました。

地震の影響で安全確認を行っているため滑走路が封鎖されています。

そのため、駐機場に向かえません。しばらくお待ちください」と。

 

しびれを切らした周りの乗客が携帯電話の電源を入れ始めました。

コソコソした声で情報が伝わってきました。

「東北で震度6だって」

津波警報が出てる」

 

なぜ、東北の地震で羽田に影響してるんだ?

関東もまぁまぁ揺れたんだろう。それにしても遅いな。

くらいにしか思っていませんでした。

 

16時半ごろにようやく飛行機から降りることができ、

空港に迎えに来てくれているおばさんに電話しました。

しかし繋がらない。

荷物を取って、到着口で再度おばさんに電話をかけるも繋がらない。

「あれ?電源切ってるのかな?」と思うだけで、

通信ができない状況になっていることにも気づきませんでした。

 

到着口付近を探し回っていると、おばさんに会うことができました。

おばさんからの話で規模の大きい地震だったこと、事の重大さを知りました。

同時におばさんから、

「今日は電車が動かないだろうから帰れないかもしれない」

「ここで泊まる用意をしよう」

「帰りの飛行機も変更した方がいいかもしれない」

と通告をされました。

 

急いで空港内のコンビニで弁当を確保し、

寝床のための段ボールも同時に確保しました。

 

そして、沖縄にいる母から電話がかかってきました。

この時、こちらから電話を発信することができないが、

なぜか沖縄からの電話は受信できるということに気づきました。

 

母との相談で12日に帰る予定を13日に延ばすことにしました。

その手続きをするためカウンターに向かっている時、

空港内のテレビで東北の状況を目の当たりにしました。

 

ショックでした。愕然としました。信じられませんでした。

 

この日の感情はぐちゃぐちゃでした。

 

試験が実施されるのかという心配、

緊急地震速報が空港内に流れた時の恐怖、

速報が流れた後に揺れなくてホッとした感じ、

速報無くふいに大きく揺れた時の驚き、

 

なにより一番印象に残っているのは無力感でした。

 

夜の9時か10時頃、空港内で非常食や毛布などのセットが配られていました。

この時、そのセットを配ることを手伝いたいという思いが浮かびました。

今振り返ると、何か役に立ちたい、そういう思いから来たものだと思います。

しかし、それを申し出る勇気が出ない。

申し出たって断られるのではないか。

いや待て、明日試験だし、備えて眠らなきゃいけない。

いつまでやればいいかわからんし。

 

結局、様々な言い訳を並べ、行動に移ることはありませんでした。

 

13日に沖縄に帰りました。

被災地から距離が離れたことでホッとした半面、

あの時の無力感が残っていました。

そして、その無力感だけがずっと残り続けています。

 

 

 

 

 

この10年、私は被災地に何もできませんでした。

あの後に3浪を経て大学進学し、沖縄を離れ関東に来ました。

沖縄より被災地に近いところで生活することになりました。

でも被災地に行くことはありませんでした。

大学で被災地でのボランティア活動を募っていました。

しかし、応募することはありませんでした。

 

何かしたい

 

そう思うだけでした。

手続きの複雑さとか金銭とか移動とか事情を考えて、

自分に都合の良い解釈をして行動を起こすことをためらいました。

そして10年を迎えました。

 

 

 

 

今日、改めてあの時の無力感に向き合いました。

次の10年を迎える時はこのような思いをしたくないです。

 

社会人になって給料ももらってお金があるから寄付ができる、

沖縄と比べてアクセスもしやすいから被災地に行ける、

公認心理師の資格(現在申請中だが)も活かせるかもしれない、

 

考えるだけでなく行動に移そうと思います。

 

読んで頂きありがとうございました。

 

2021年3月11日    おはなさん